平成28年は天下人・徳川家康に真っ向に勝負を挑み「日本一の兵(つわもの)」と賞賛された武将、 真田幸村を描いたNHKの大河ドラマ「真田丸」が大きなヒットを納め、その活躍の舞台となった信州上 田や、最後の戦いの地・大阪などゆかりの地にはかなりの観光客が押し寄せました。
家康の三男・徳川秀忠と激戦を演じた長野県・上田城跡や群馬県・沼田城跡、大阪の象徴・大阪城はもちろん、
幸村自刃の地となった安居神社(天王寺区)、幸村が父と大阪冬の陣まで幽閉された和歌山県・九度山の二尊院 など、今はやりの「聖地めぐり」を楽しんだファンも多かったようです。
そのなかでファンの間で注目されたスポットが大阪南部・堺市にあります。それは南宗寺という小さなお寺なのですが、
ちょっとした歴史好きでも知らない人が多かったかもしれません。
実はこの寺には、「徳川家康の墓」があります。
家康は駿府城で 亡くなり、日光の東照宮に葬られたのが通説です。
大阪夏の陣で豊臣勢の急襲に慌てて、籠で逃げようとした家康が槍の名手・後藤又兵衛の槍を受け(※1)、ここまで逃げ仰せたものの籠をあけると既に家康は絶命していた、という 話が伝わります。
当然、家康の死は秘されて、徳川軍は勝利するのですが、戦後この寺に秀忠・家光の歴代将軍が参拝していたことが分かり、これが「家康戦死説」の基礎となっています。
後年、幕臣・山岡鉄舟も「ここが家康の墓に間違いない」と寄稿したりしていますが、事の真偽はまさに戦いの余燼の中で定かになっていません。
※【松下幸之助の名前が墓の裏側に賛同者として記されている】
そんな中、この説を「経営学」や「組織論」から論じる見方が出てきました。
それは、「例えば、家康が真実、大阪夏の陣で没していたとして、果たして歴史は変わったのか?」ということでした。
大方の見方は「NO」。
なぜかというと、1600年、関ヶ原で勝利した家康は3年後、征夷大将軍宣下を受けて江戸幕府を開くのですが、その間にも大名の改易や配置換えなど幕藩体制を堅固にする施策を次々と講 じていきます。
1605年に将軍職を三男の秀忠に譲り自身は大御所となって駿府に退いていました。そのため、家康が例え大阪夏の陣で落命しても、家康が15年の間で築いた徳川幕藩体制が覆るようなことは無かったというのが大方の説です。
つまり家康は長い時間をかけて「自分がいなくても継続できる組織作り」という大戦(おおいくさ)を進めていた訳で、それは現在の組織の継続性や自動性に繋がる、との解釈です。
「名将死して敵を走らす」とは三国志の諸葛孔明の事ですが、家康を倒すことに集中した幸村、自分が居なくなったとしても回る組織を作った家康、という意味では家康に1日の長があった、ということになるかもしれません。
しかし、そうした時流を名将とうたわれた幸村が知らずに夏の陣に参戦したとは思えず、「負け戦」を承知の上で豊臣への「義」を貫いたとすれば、真田幸村はやはり「日本一の兵(つわもの)」と、敵方武将の嘆息が今でも聞こえそうです。
※1 実際この時に家康が乗っていた籠が日光市の日光東照宮宝物館に展示されていおり、その上下に開いている穴はそのときの穴だという説もあります(幸村の短筒によるとの説もあり)。。